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メタ情報
月別アーカイブ: 7月 2011
地鎮祭、力御守、七五三参り
7月18日は大安祝日にて、賑やかな一日でした。 早朝より、地鎮祭がありました。 毛谷黒龍神社の地鎮祭の祭壇 神饌も榊も新鮮なものを使います。 ―力御守― 主人が病気に掛かりがちで・・ 手術する人がいて・・・ 子どもが明日試合なので・・、 気力を戴きたくて・・ 外国人のお友達にプレゼントしたいので・・・ 元気になりたい・・、 運を戴きたい・・・、色々な想いを抱かれた方がお参りと力御守りを受けに来られました。 ―七五三の参拝で記念撮影― ご予約されていた、今年最初の七五三参りが執り行われました。 色々な諸事情によって、早めに七五三詣でのお祓いを受けにこられる ご家族が7月8月にかけて参拝されます。 海外へ行ってしまうので、 県外に引っ越してしまうけどどうしてもここで七五三を受けときたい・・、 その他、いろいろなご都合でお参りに来られるご家族がおられます。 とにかく「おめでとう!」(^^)b 午前午後と初宮参りと安産祈願を奉修し、この日は夕刻より、 米寿のお祝いが執り行われました。人生儀礼は家族の心を 確かに繫いでゆく重要ツール。いつの日か、和と絆の支えに・・。
夏祭を奉修。
7月24日、午前11時より毎年執り行われる毛谷黒龍神社の夏祭りが斎行されました。 当神社氏子総代 花山会長をはじめ、役員の方々、そしてお祀りに御花、御茶を 供えて頂ける足羽婦人会の皆様のご参列のもと、厳粛に祭事が執り行われました。 【参列された総代役員、献花献茶奉仕者に振る舞う素麺】 祭礼終了御、社務所で直会(なおらい)を行い、総代参列者献花献茶奉仕者に御神酒とお弁当、 お素麺を召し上がって頂きました。素麺の振る舞いは、60年ほど毎年行っている黒龍神社の恒例 伝統行事で、今年は例年より暑い気候のためか、お素麺をおかわりされる方が殆どでした。^ー^b 神社のおばあちゃんにきいたところ今年は「60束」の素麺を湯がいたとの事。20年ほど前までは、 素麺のだしはかしわのだしを使用していたのだが、時の総代会長であった辻万さんの要望により 鰹とこんぶ、しいたけのだしに変わったとの事。60束分のだしはお鍋2個分の量になったとか・・; 【PM7時より恒例の民謡踊り】 今年は35名の参加で、これもまた古くから続いている伝統行事です。 東日本大震災被災者の冥福とこれからの発展、そして氏子地域の安全と 繁栄を祈り、かしわ手の音と踊り子の楽しい声が境内に響き渡っていました。 【神前に供えられた九座の神饌と献花献茶】
米寿のお祝い
7月18日、毛谷黒龍神社のおばあちゃんの88歳を祝う、 米寿のお祝いがユアーズホテルで執りおこなわれました。 二十歳の頃に京都から毛谷黒龍神社に嫁いで68年の歳月 を迎えました。戦前より福井空襲や福井地震、激動の時代 から神社をかげからささえてきたおばあちゃん。おばあちゃんと 交わすいつものなにげない想い出話のなかには、歴史の生き 証人ともいえる深く感じさせられる大切なものがたくさんあります。 ひとつのエピソード※ 「今年の夏は暑いね~。京都の祇園祭もたぶん暑いやろうの~。 私も福井にきてもう68年目やけど、毎年この時季になると京都の 祇園祭を思い出すね。祇園祭になるとお母さんがきんちゃく寿司を 作ってくれてなー、それを姉ちゃんや家族で食べるのが好きやった んや。八坂にいたときのいい想い出やった・・。昭和18年に福井へ きてなーその2年後に福井空襲があったんや。お昼ご飯の仕度 したら空襲警報がなってな、B29の飛行機が飛んでくる音がわかっ たんや。私の旦那のお父さんと神社のうしろに隠れ逃げたんやわ・・。 そしたら数分もたたんうちに飛行機の大群がきて焼夷弾をおとした んや。もう神社の前の道でバーンバーンって弾ける音がひどくてな、 ちょうどその頃うちの旦那(前宮司:山本治)が福井神社の当直の 日でな、福井神社の御神体をおんぶして黒龍神社のうしろに走っ てきたんや。お父さんが「治、よくやった!よくやったな!!」って 泣きながら旦那を讃えなってな。あとで聞いたら治さんは生まれて 初めて神主として先代のそのお父さんに本気で褒められたんやっ ての~。爆弾が落ちてくるなかを、神様をおんぶして県庁のところ からこの神社まで走ってきなって、神様を燃やしてはならんという 神主としての心にお父さんも、神社のうしろに一緒に避難していた 近所の人も、ひどく喜んでなったのー。それがあって「戦争なんか に負けてなるものか」って不安だった気持ちが復興の負けん気に なってなー。一晩神社のうしろで過ごして朝境内からあたり見回 したら福井市内なんにもなかったよ。ここの神社は山の際にある からかの~焼けんかったんよ。神社社務所の前に大きな銀杏の 木があってその銀杏の木が水を噴いての~、福井神社の神様を 黒龍さんの本殿に合祀しての、だからここの神様も、福井神社の 神様も焼けてない神様やから大事にせなあかんのやよ。いまの 神主さんたちがそうゆう歴史を知っているかはわからないけれど、 本当に大変な時代やった・・。」「なにもない状態から福井の人は バラックで家を建ててあるもので耐えながら徐々に復興していった。 福井の人はすごい頑張ったんよ。ここの神社の社務所も5組の … 続きを読む
災害復興、水無月の大祓、子授け
先週の一週間、心と体ともども慌ただしい日を過ごしていた記憶が、 今は夏のさやさやと流れる風のように、心の余韻を浸しております。 6月27日と28日の2日間、福島県いわき市の久ノ浜へ趣き津波に よって壊滅的なダメージをうけた被災の地復興支援活動に行って参り ました。内容は、住宅のがれき撤去作業。福島県の青年神職11名、 福井県の青年神職10名がタッグを組み、久ノ浜諏訪神社さんの周辺 の住宅を一軒一軒、がれきの撤去を行い泥なども掃き取りきれいに していく作業を行いました。総勢21名の作業員で27日の午後~28日 の午後2時頃までの作業でようやく家一軒のげれき撤去が完遂できる 塩梅。報道や仲間から聞き入る状況でその作業内容を想定していても、 実際の現場に足を踏み入れてみれば、そんな容易いものではなかった。 入った現場は、久ノ浜のきれいな美容室。住宅と美容室が一体となっていて 外観もきれいな佇まいでした。きっと多くの地域の方々が、ここを利用していた んだろうな~と風情を浮かべることができます。津波が1階部分をめちゃめちゃに したのでしょう。鏡、窓、洗面台、あらゆる割れ物がバキバキに割れていて、割れ 残った窓ガラスは大きな刃物を並べるかのように窓枠にくっついていました。 床には津波の泥と割れたガラスが入り交じり、分別の作業を手こずらせました。 一番の作業の正念場は台所付近でした。テーブルや食器棚、レンジ台、冷蔵庫 などの家電用品の運び出しや台所付近のリビングに散乱している泥まみれの本や 雑誌、書類、食器、写真等の分別運び出し作業を行いました。震災から3ヶ月半も 経てば腐敗する物は腐敗し、本当に災害直後からその画がピタッと止まったままの 後景を無言で受け止めながら出来る限りのクリーニングを行いました。あたりまえの ような普段の生活を送っていた我々にとっては、偽善心なのか捨て去られるすべての ものが悲しくて儚くて、それでも捨てなきゃ始まらないし、そのお家のお子さんのであろう 表彰状一枚撤去することがとても切なかった・・・。がれきの撤去にあたり、その家主の方 からは「がれきの中から写真と通帳、はさみ(美容師用)がみつかればとっといて戴いて、 後は処分して戴いて構いません。」との申し出が事前に伝えられており、その言葉を強く 胸の中にしいて、作業にあたりました。作業を終え、その住宅の道沿いの奥手まで仲間と 散策してみました。紙一重で現状を維持しているお家もあれば、大半は1階部分が窓枠と 柱だけのお家や傾いているのに柱一本斜め立ってるお家、1階部分がつぶれて道路に はみ出ているお家、非常用滑り台がもげコンクリートの階段の下半分が無くなっていて、 てつ棒がひん曲がり、ブランコもばらばらになって埋まっていて、1階部分が荒れ果てた 惨状になっている幼稚園、「・・・どうしようもない。・・しかし一歩ずつやっていくしかない。」 そう自分に言い聞かせるしかなかった。今回の復興作業のベースキャンプである諏訪神社の 高木祢宜神職さんから、震災直後の津波によって火の海に包まれた200メートル先の現場 状況や津波から逃げる間もなく亡くなった方、逃げている間に亡くなった方、介護等をしていて 逃げずに亡くなった方の話や、復興しようとしていても政府がその現場に原発の塵廃材を持って こようとしているといった腹の立つ情報や、災害が起きてから支援の手が届くまでの状況や色々 … 続きを読む