毛谷黒龍神社とは
ご祭神・ご神徳
水の神様
毛谷黒龍神社
ご祭神 | 高龗神闇龗神男大迹天皇 |
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相殿神 | 聖徳太子 兼務社二十三社分霊 |
社紋 |
三ツ葉葵 |
由緒・沿革
男大迹王越前國御在住の時、地の理に随ひ越前国の日野、足羽、黒龍の三大河の治水工事をされ越前平野を拓かれた際に、北陸随一の大河であった黒龍川(九頭竜川)の守護と国土安穏、万民守護のため高屋郷黒龍村(舟橋)毛谷の杜に高龗神、闇龗神の二柱の御霊を祀る「毛谷神社」が御創建されました。
和銅元年(708年)
元明天皇の和銅元年9月20日、継体天皇の御遺徳を景仰し御霊の合祀が行われた。
元徳元年(1329年)
後醍醐天皇の元徳元年6月1日神託により越前守参議藤原國房公が北ノ庄菩住山斎屋清水の上に(足羽山)に奉還され、元鎮座の黒龍村(舟橋)名を併せ「毛谷黒龍神社」と改称し、また元神社名を取り麓一帯は「毛矢町」と呼ばれ祭りは賑わい盛儀が行われた。
天地の初めから国土を守護されてきた四方位を象徴する御四柱の神の一社にて、往古より北国の鎮護神として著われ、「国土護治の神として、四國に四神座しき、東に常陸鹿島大明神、南に紀伊熊野大明神、西に安芸厳島大明神、北に越前黒龍大明神四隅を司どらしめ守護し給ふ」(絵図記)と記され日本古来の四大明神の一つとされている。
延元3年(1338年)
越前名蹟考 「太平記」巻20黒丸城初度軍事付足羽度々軍事に「延元3年5月2日一条ノ少将朝臣、五百余騎ニテ江守ヨリ押寄テ、黒龍(くずれい)の明神ノ前ニテ相戦フ」とある「黒龍の明神」は、当時すでに足羽山に遷座されていた毛谷黒龍神社とされる。
慶長8年(1603年)
慶長8年1月10日越前藩祖入納言三河守源、秀康公霊験著しきを以って黒龍宮を越前松平家の祈願所とされ社地として櫻井山(黒龍山)を寄進、御社殿を造営され人々の崇敬殊に篤く奉祀も郷重を極め神威日々に輝いた。
元禄3年(1609年)
元禄3年5月松平吉品公国家の安泰と武運長久を祈願され神殿を山上(今日の藤島神社々地)を造営され、松平家代々の諸種の献納あり。
明治8年(1875年)
その後、明治8年12月10日現今の地へ社殿の移築が行われ敦賀県に於いて郷社に加列され、同33年4月福井市の橋南大火により社殿類焼の後、同38年5月18日再建、現在の本殿は昭和3年、拝殿は同6年に再建された。福井市内で唯一、福井空襲、震災を免れた歴史ある神殿の神鈴に願いを託す人は跡をたたない。
昭和52年(1977年)
御創立1500年式年大祭が齋行され、稚児行列などの各種の奉祝行事が行われ、また平成元年、御社殿修改築事業に着手し八幡神社、恵比須神社、神楽殿の改築、境内整備事業を行う。
関連の歴史書
毛谷黒龍神社々記、足羽社記、越前神社考、越前國名所記、越都細見集、歸雁記、越前地理便覧、片龍記、絵圖記、名勝志、國主附記録、足羽山紀行、越前著聞集、越前國古今名躇考、持寶院記録
境内社
石渡八幡神社 (厄除けの神様)
開運厄除け・方除け・無病息災・交通安全に
ご利益があるとされています。